東川端町の歴史

1911年(明治44年)11月1日

中区前津小林町・東古渡町の各一部により、以下の通りに中区東川端町として成立。

  • 前津小林町字下キロメキ・長総の各一部により、東川端町1丁目が成立。
  • 前津小林町字長総・八反田・松元の各一部により、東川端町2丁目が成立。
  • 前津小林町字八反田の一部により、東川端町3・4丁目が成立。
  • 前津小林町字下手・八反田の各一部により、東川端町5丁目が成立。
  • 前津小林町字笠取・北三反田・南三反田の各一部により、東川端町6丁目が成立。
  • 前津小林町字大ノ田・南三反田の各一部により、東川端町7丁目が成立。
  • 前津小林町字大ノ田の一部により、東川端町8丁目が成立。
  • 東古渡町字大井戸・前津小林町字大ノ田の各一部により、東川端町9丁目が成立。
  • 東古渡町字大井戸・向田・藪田の各一部により、東川端町10丁目が成立。
1942年(昭和17年)2月1日

一部が三田町に編入される。

1969年(昭和44年)10月21日

住居表示の実施に伴い、以下の通りに栄五丁目・千代田一~四丁目に編入され、消滅。

  • 東川端町1丁目が栄五丁目・千代田一丁目に編入。
  • 東川端町2・3丁目が千代田一丁目に編入。
  • 東川端町3~5丁目が千代田二丁目に編入。
  • 東川端町6・7丁目が千代田三丁目に編入。
  • 東川端町7~10丁目が千代田四丁目に編入。

名古屋市一級河川庄内川水系 堀川圏域河川整備計画(原案) より

  • 改修前:精進川が御器所および名古屋中央台地(お城からhがし別院に至る台地) の水を集め、東郊通り、堀田通りを流れた。
  • 当時は湿地帯であった、雁道、牛巻、熱田周辺は大雨により洪水がしばしば発生していた。
  • 日清(1858)、日露(1907)戦争で兵器工場が熱田周辺に作られて、物流、および治水対策が必要となり、人口の川幅、水深も十分な新堀川が掘削され、精進川も消滅した。
  • 明治38年10月着工(1905)~明治43年2月完成(1910)新堀川掘削で排出された土砂が鶴舞公園に 埋め立てられ公園になった。川幅23~27m、水深1.42m 全長5.7Kmである。その後、水運を生かし、橘学区の川沿は材木の町となり栄えた。
  • 昭和5年10月1日には堀留に最新式活性汚泥法による下水処理場 が完成し中区、東区、昭和区の下水、雨水は堀留処理場に集められ、高度浄化処理がなされ、新堀川に放流されるようになった。
  • 橘学区の川沿いには戦前から材木に関連する産業が発達したが、伊勢湾台風(昭和34年)による貯木場の流出により多くの家が破壊され多くの人がなくなりました。その結果市内の材木産業は飛島地区に木材団地を作り移住することになりました。また安い輸入材が入り海辺で加工したほうが合理的であったことおよび物流も水運から陸上交通が主体となり、学区内の木材産業が衰退した。
  • 木材業の跡地は比較的大きな区画の土地が有効利用でき、その跡地は昭和50年代頃から、物流や商業を主体とする会社や、大きなマンションへと変わり、現在の川沿いは商業地区と区分され現状に至っています。